超技巧の光る、唯一無二のモンブランを作り上げ、またその発想の豊かさやセンスは世界を驚かしてきた小住匡彦シェフ。パリでは「A Lacroix patisserie」でスーシェフを、そして28才でパリの五つ星「palace hotel」でスーシェフを任せられ、世界で認められたその舞台裏を取材してきました。「今もう一度経験しろと言われたら絶対に嫌」というほど、激動のフランスでの留学時代と、シェフ時代、そして小住シェフの「今」の現在地とは?
目次
建築学を学びながら、サッカー選手を目指した大学生時代。ケーキとは無縁の生活
Q.小住シェフは、もともとパティシエを目指して専門学校を出てパリへ行かれたのでしょうか?
小住シェフ「いえ、全然違います(笑)。実は大学では建築学を学んでいました。そして、サッカーやフットサルをやっていました。子どもに教えることもしていたし、周りには J リーガーになったり、コーチになるなど、プロの道へ行く人がたくさんいたので、自分自身もこういう道へ行くのかなと思っていたんです。
あと建築学を学んでいたから、そっちの世界も考えていたし就活もしていましたがこれからどういう道を歩むべきか、常に悩み続けている中で、父に相談したらパリへ行ってこいと言われて。実は父はパティシエだったので、そういう意味で同じ道を歩んで欲しいという考えも、もしかしたらあったのかもしれませんが、フランスはサッカーも盛んだったので、パリへ行くことになりました。」
パリでたまたま働いたケーキ屋で起こる、パティシエとしてのDNAの目覚め
Q.パリに行って、年齢的にはそこからパティシエの世界へ行くのに驚きました。何かきっかけがあったのでしょうか?
小住シェフ「そうですね、フランスの大学もいって、勉強するのは好きじゃないけれど、勉強する癖があったので打ち込んでいましたし、得意なサッカーでは子供に教えて、コーチみたいなことをやっていました。そのおかげか、フランス語がだんだんとわかってきたところで、実はロンドンにも行きました。英語を話せるようになってきて、ある程度時間たったところで、どうしようかなと将来の道をまた考えてしまって。その時に親がパティシエだったので、いったんケーキ屋でアルバイトしてみるかとなって。
働き始めてからは、僕が人に頼っていたのがすぐに自分が教えて、頼られる側になっていってびっくりしました。その時がめちゃくちゃ楽しくて、父親が休みなく働いていたのを“おかしい”と思っていたのが、この時パティシエの世界のことがすごくよくわかって。そこで製菓学校いってみよう。モチベーションある子、そして人生をかけてきている子がたくさんいる名門の『ル・コルドンブルー』で挑戦してみようと思い入学しました。
すべてこなせた専門学校時代。わずか1カ月で退学し、ベストオブパリを受賞した「ラクロワ」へ
Q.専門学校時代はどんな過ごし方をしていたんでしょうか? 厳しい世界だったのでしょうか?
小住シェフ「いや、これが……すごく簡単で(笑)もともと父の手伝いを、子どものころからやっていたので、なんでもできてしまって。もう学ぶべきことはないなと思って、1カ月で退学してしまいました。
“時間を無駄にしたくない”その想いでした。15歳からパティシエになっている人もいるし、22~23歳になって大手で働く人もいっぱいいた。そこに追いつけ、追い越せじゃないけど、もう現場に出ようと。Instagramやfacebookを見ながら“おまえらみとけよ”そんな大きなモチベーションを持っていました。
Q.その後はどのようにして、お店を探されたのでしょうか?
小住シェフ「その後は、10店舗近くで働きました。パトリックロジェやミシャラクを含め、大きいところにもいましたが、かなり大きい部分の一部にしかなれなかったので長くは勤めませんでした。その時に、自分にとって転機となったお店が『ラクロワ』というお店です。ベストオブパリにも選ばれた人気のお店でした。そして、フランスに来て美味しいと思ったことが3回しかなかったんですが、その1回がこの『ラクロワ』で食べたケーキ。きれいだし、美味しい。
シェフはすごく生真面目で、僕がしつこく何回もお願いしてやっと働かせてくれたんです。失敗しても怒られるけど、やったろ!と思わせてくれる、そんないいシェフでした。その時は休みの日もケーキを作ること以外何もしないぐらい、無我夢中な時代でしたね。」
スイッチが入るきっかけとなった差別との闘いと、反逆の精神
小住シェフ「その後、このいい出会いでもあったラクロワで、とあることがきっかけで大きな転機となりました。シェフが僕のことを信頼してくれて、色々なことを教えてくれて。それでそのことを面白く思わなかったのか、他の子がみんなやめる、ということになってしまいました。“あんな中国人みたいなのに!”といじめられたりもして、すごく落ち込んでしまって。
『ケーキを学びたいだけなのに』と母にも電話で相談しながら、真っ暗になっているお店へと向かって中へ入るとシェフがなぜか工事していて……。すごくびっくりしました。“何しているんだよ!?”というと、厨房キッチンを半分にしていて、半分ゆずると言ってくれたんです。
『俺がかえせることは、おまえにケーキを教えられること』
そういわれて、そこでスイッチ入ったんです。洋菓子界に、還元していかなければいけないなと思って。その後、シェフに休みをあげました。一人となったので10日間は地獄の始まり。実際は3週間だったんですが(笑)。アルバイトの子のシフトを決めて、ずっと銀行、ずっと材料発注、クレーム対応もし、トイレの工事の修理まですべてやった。ありとあらゆる苦難を経て、“もう俺は無敵だ!”と。もうどこのお店でも回せるわと思いました。」
5つ星ホテル「パラスホテル」への道とは
Q.その後、パリでも屈指。5つ星のパラスホテルへ行かれることになったかと思いますが、そのきっかけを教えてください。
小住シェフ「ラクロワのシェフに、店をそろそろ出たほうがいいといわれて。もっと大きなところへ行って来いと。色々悩みながらも、次の場所を探しました。フランスでは自分の経歴を出して、オファーを貰えるような仕組みがあるんですが、想像もつかないようなビッグオファーがあって……。それがフランス最高峰である、5つ星ホテルの『パラスホテル』。しかも、オファーのポジションがスーシェフ。オファーといっても、さすがにテストでたくさんの人が受けていたので、“まあ受からないよね”と思っていたら、受かってしまったんです。その時に、抹茶や柚子だったり日本人らしいものではあえて勝負せず、フランスの伝統菓子で勝負しました。そこがよかったみたいで。
Q.なぜ抹茶や柚子で勝負しなかったのでしょうか?
小住シェフ「あれはいわゆる、日本人やからという理由で受かりたくなかったからですね。あれをしていいのは『サダハルアオキ』だけでいい。彼の物まねをすることは必要ないし、フランス人が真似するから面白いので、僕はここで学んだことと、自分の感性を信じて挑みました。」
今後の目標は日本での成功
激動のフランス時代を過ごしてきた小住シェフ。スペインの業界専門誌「SO GOOD」で日本人初の表紙を飾り、世界でのさらなる活躍を予測されていた小住シェフも、コロナ禍の影響で観光客も減ったパリから、日本へと帰国。現在は父の店舗を使いながら催事での出店を中心に始動したばかり。今後の目標を伺いました。
小住シェフ「もうこんな経験、5億、10億もらって経験しろといわれても絶対嫌です(笑)あの8年前に戻って、もう1回いけと言われても絶対無理。フランス行きたいという子はとめますよ、ここ日本よりも100倍、1000倍しんどい。そんな経験も経て、今があるわけですが今は日本で自分のブランドの直営店を持つことを目標に動いています。東京へもまだ出店できていないので、いつかはぜひ。」
熱い想いと、まだ若いシェフのストーリーを聞いて終始興奮した今回。今後の活躍も楽しみです。
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マサヒコ オズミ パリ
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