パリのモンマルトル中腹にある静かな通り、ルー・デ・トロワ・フレール(Rue de trois frères)。
映画「アメリ」のロケ地になった八百屋さんから少し離れた坂の途中、木曜から日曜の夕方になると、ちょっとした行列ができる小さなパン屋さんがあります。それが日本人パン職人の稲垣信也さんが営む「シンヤパン(Shinya pain)」。
フランス人にとってパンは日々の主食。さっと入ってさっと買って帰るのが当たり前の光景ですが、シンヤパンでは、日によってはパンを買うのに1時間ちかく待つこともあるといいます。
フランス人が長い行列に並んでまで食べたいシンヤさんの焼くパンとはどういうものなのか。シンヤパンの魅力について取材してきました。
目次
古代麦などの稀少なオーガニック小麦を使用した個性豊かなパンたち
シンヤパンは、18㎡の小ぶりなパン工房で製造から販売までをすべて一人でまかなう、完全なワンオペスタイル。週四日の営業で、昼間は営業せずに開店は夕方の16時半からという、なかなか珍しいスタイル。
シンヤさんの一日は、朝6時から始まります。
まずは工房でコーヒーを一杯飲んでから、仕事開始。窯に火をつけて、どんな成形にするかを考えてきます。焼くパンの種類や順番なども、その日その日の生地の状態次第。
シンヤさんの作るパンは、小規模農家から仕入れるオーガニック小麦粉とルヴァン(発酵種)、塩、水のみを使って、冷蔵庫で18時間かけて低温発酵させる昔ながらの製法。年間の気候や日々の状態によって粉が水を吸収しやすかったり吐き出したりと、つねに生地と向き合って仕事を続ける毎日です。
最初の窯出しは、朝9時半頃。
「考えながら、やっと生地を窯に入れて、8-10分で膨らんでくるのを見ていると、おおーと思うんですよ」
こうしてパンがうまく焼きあがったのを見るのが至福の瞬間というシンヤさん。オーブンから一つひとつパンを手にとり確かめながら、テーブルに置いていきます。
焼きあがったライ麦パン(Pain de Seigle)を手に、「これはいい表情してる」と大満足の様子。「パンの裏の絞った感じの表情もいいんですよ」と、嬉しそうなシンヤさん。
粗熱がとれると、通りに面したお店のウィンドウ棚に、パンを立てて並べていきます。それをシンヤさんは、「お披露目」という、愛情たっぷりの言葉で表現します。
シンヤパンで取り扱うのは、10-12種類の稀少なオーガニック小麦と、15年以上使い続けているという自家製酵母を使って、丁寧に焼き上げた個性豊かなパンたち。
この日販売されていたのは、ルージュ・ドゥ・シャンパーニュ麦(Blè rouge de Champagne)、グラン・ドゥ・ノエ(Grains de Noé)、ルージュ・ドゥ・ボルドー麦(Blè rouge de Bordeaux)ライ麦(Blè de Seigle)、コラザン麦(Blè Khorasan)、古代麦アングラン・プチ・エポートル(Engran-Petit epeautre)などを使った6種類のパン。
小麦によって吸水率や扱いやすさなどもさまざまで、シンヤさんは日々小麦の状態と向き合いながら仕事をしています。どのパンも小麦それぞれの個性が前面に出た、奥深く余韻のある味わいが持ち味です。
バゲットは?と尋ねると「今の店では、バゲットは作りません。生産量が多くないといけないし、ある程度、器材も必要としますから」とのこと。
パリのパン屋なのにバゲットを置いていないことにも驚きましたが、それでも行列ができるというのですからまた驚きです。
パンを買うだけじゃないフランス人にとっての「ブーランジュリー」
15時になると開店準備。その日に焼いたパンやお菓子をカウンターテーブルの上に並べていきます。開店の30分前になると、すでにお店の前にはお客さんが並びはじめています。
「ボンジュール!」
お店にやってくるお客様ひと組ごとに、シンヤさん自ら笑顔で丁寧に接客します。さながら、村のマルシェのパン屋さんとでもいう風情です。
人気の商品は、古代麦アングラン・プチ・エポートルを使ったグルテン含有量が低いヘルシーなパン。味がしっかりしていて、消化しやすく、一週間の保存がきくことが人気の理由です。パンのほかにも、フランやタルト系のお菓子もいくつか売られています。
近所に住む30代の女性は「今日は15分程の待ち時間だったけど、この前は一時間近く並んだの。だけどシンヤの作るパンはとっても美味しいし、価格もリーズナブル。シンヤの人柄も素敵だから、行列が長くても、同じパンを買うならやっぱりここに来たいの」と、シンヤさんの美味しいパンだけでなくその人柄も、お店に人が絶えない理由のようです。
フランスを巡って知った、人々の生活に根差す「パン」という存在
シンヤさんは日本のベーカリーなどで5,6年半働いた後、一年間のワーキングホリデーで2000年に渡仏。
最初に訪れたノルマンディー地方の農園で、シンヤさんは薪窯でのパン作りを経験します。
「形がふぞろいで素朴なパンがかっこいいと感じたんです。日本のようにすべての商品がすべて同じ大きさ、形で並んでいるのではなくて、生地は生きていてパン一つひとつには表情がある。その美意識に共感しました。
仕事に慣れてきた頃に、師匠が僕のためにパンを売る機会を用意してくれたんです。海辺のキャンプ場付近に週一回、夕方に出るマルシェでした。
自ら焼いたパンを、古いプジョー305を運転してマルシェまで運んで、パラソルを立てて、テーブルに並べて販売。お客さんとのやりとりや商売の仕方、いろいろと迷いながら体で覚えていきました。ここで働いたことが今のワークスタイルの基盤になっています」
このように、シンヤさんは3年をかけてフランスの地方を巡り、行く先々で、その土地で一番おいしいパンを作る人は誰かと尋ねては、訪れていきました。
ターブル・ドット(Table d’ hôte)*を営む羊農家に住み込みで働いてパンを焼いたり、ペイザン・ブーランジェ*の元で修行を積んだり、ときには蜂蜜農家で修行したりと、フランスのあらゆる食文化に触れていきました。
※ターブル・ドット:主人が料理を作り、ゲストとともに同じテーブルを囲んで食事をしながらもてなすサービスまたはそれを提供する民宿を指す。
※ペイザン・ブーランジェ:小麦の自家栽培からパン作りまでを一貫して行う農家兼パン職人。
「そうして地方回りをしているなかで、初めてその名前を知ったのが、『伝説のパン屋』とも呼ばれるジャック・アントナン(Jacque Antonin)氏でした。アヴェロン地方の村で、自然の循環システムを考え、畑で麦や野菜を作り、自給自足のパーマカルチャー*を実践された方です。
このアントナン氏は、敬虔(けいけん)なクリスチャンでもあり、パン生地を十字にクロスして成形するんです。この方からパンづくりを学びながら、食べることと生きることが相互に強く結び合っている様子を目の当たりにして、日々の食物の重要性を再認識させられました」
※パーマカルチャー:「永続性(パーマネント)」と「農業(アグリカルチャー)」を組み合わせた造語。「永続する農業」という意味が込められており、持続可能な循環型の農業をもとに、人と自然がともに豊かになるような関係性を築いていくためのデザイン手法を意味する。
パリに戻ってきたシンヤさんは街のベーカリーでも経験を積みながら、2008年には「La Baguette des Haute de Seine」で1位になりました。そして2020年の6月、モンマルトルに「シンヤパン」をオープンさせました。
焼きあがったパンを見る瞬間が何より幸せ
お客様とのやり取りを楽しみながら、いつでも幸せそうな笑顔でパンを焼くシンヤさんに、パンづくりの魅力についてお伺いしました。
「僕はシンプルに、『麦が美しい』と思うんです。地方を旅して麦畑もさんざん見てきましたが、麦の穂が風にゆれる姿に心を打たれるんです。
『何故、パンを作り続けるのか』と自分に問いかけてみたときに思うのは、窯から焼けたパンを出して、その表情を見るのがたまらなく幸せだということです。
うまく美しく焼きあがったパンを見る瞬間が何より嬉しくて、日々この仕事を続けているという感じです。そのパンをお客さんにお見せするときに、『ほらね、すごいでしょ!』という感覚を分かち合いたいんです」
優しい笑顔で、シンヤさんはそう語ってくれました。
取材を終えて
お店のあるモンマルトルは、かつて小麦の製粉に使われた風車がたくさんあった場所であり、若きピカソやゴーギャンなど数多くの芸術家たちが集い、生活していた芸術の街。
麦の穂の美しさに感動し、こだわりの小麦と酵母を使ってひとつひとつ大切にパンを作り続けるシンヤさんのお話を伺っていると、この場所はまさにシンヤさんに合っている場所なのだと再認識しました。
「モンマルトルは、結構住人の移り変わりも多いんですが、引越しの前に、わざわざ挨拶に来てくれる常連さんもいるんです」とのこと。 シンヤさんとお客様たちの間に、とても親密な関係が築かれていることがうかがえます。
モンマルトルに住み、シンヤさんのパンを食べて生活してきた常連さんが、引越し前に日常の糧を作ってくれた職人に挨拶に行くことで、生活に節目をつけるのかもしれません。
モンマルトルの人たちの生活とシンヤパンは密接につながっている。そんな一面を垣間見た想いでした。
●取材協力
シンヤパン(Sinya pain)
住所/ 41 rue des trois frères 75018 Paris
営業時間/ 木-日 16時半-19時半