2024年春、惜しまれつつも愛知県稲沢市での営業に幕を下ろした人気洋菓子店「pâtisserie an du temps pour la maison (パティスリーアン デュトンプールラメゾン)」。14年間にわたり愛され続けたこの店が、新たな場所として選んだのは、伝統と文化が息づく古都・京都でした。同年4月、 満を持して再オープンしたのが「パティスリーアン キョウト」です。
舞台こそ変われど、店内にはこれまでと変わらない丁寧な焼き菓子や、繊細で上品な生菓子たちが、アンティークの家具や道具に彩られた約7坪の小さな空間のなかにありました。
移転という大きな決断の裏にあった思いと、移転を経た今の心境について、オーナーシェフ・櫻さんにお話を伺いました。
愛知から憧れの地・京都へ
「パティスリーアン デュトンプールラメゾン」のはじまりは2010年。愛知県稲沢市の静かな住宅街で、妻の衣代さんが焼き菓子を中心とした小さなカフェをひとりで開いたのが最初でした。
店名の「AN」はフランス語の数字の1(UN)からきており、「1からひとつずつ丁寧に」という思いが込められています。

▲「du temps pour la maison」はフランス語で“おうち時間”の意味。おうち時間の小さな幸せのお手伝いができたらという思いが込められている。
当時ホテルに勤めていた櫻シェフも、仕事の合間を縫って、焼き菓子やパウンドケーキをお店のために用意。やがて夫婦ふたりで営む現在の形となりました。愛知での店舗は、自宅をリフォームして作ったため手狭な部分も多く、営業を続けるなかで「もっと良い環境にしたい」という思いが徐々に芽生えていったといいます。
櫻シェフ
「大工さんと僕と奥さんの3人でリフォームしながら始めたので、家の6畳分を壊して厨房にしたりと、狭い場所もありました。『いつかはもっとお店という形の場所でやりたいね』と2人で話していて、その思いが少しずつ膨らんでいたんです。気持ちや資金の準備をしながら、次のステップを考えていました」

▲「パティスリーアン」櫻智行シェフ
櫻シェフ
「正直、ずっと愛知でやっていっても良かったんです。ただ、子どもたちの進学や独立もあって、家族全体のライフステージがちょうど変わるタイミングで。僕も奥さんも関西出身なので、家族との距離を考えたときに、『関西に戻ってもいいんじゃないか』と考えるようになりました」
大阪、神戸…選択肢はさまざまにあった中で、最終的に心を引かれたのが京都でした。
櫻シェフ
「コンクールや仕事で、フランスやベルギーに十数年にわたって毎年行っていたんですが、現地の街は新しいものと古いものがちゃんと共存しているんですよね。外観はそのままで、中だけが今の暮らしに合うよう整っている。そういうのを見るたびに、新しいものより古いものに惹かれる性格もあって、すごく素敵に感じていました。若いときはあまり意識していなかったんですけどね。40代になって、これから自分がどんな町で、どんな店をやっていきたいかを考えたときに、町全体として、古き良き文化をちゃんと残している京都がいいんじゃないかと。町の空気も文化も、店としてやりたいことと自然に合っている気がして」
物件を探す段階で、櫻シェフの頭の中にあった理想は「京町家」。金額的に現実的ではなく、断念せざるを得ませんでしたが、次に候補に上がったのは、マンションやビルの1階部分。そして最終的に選んだのは、土地面積が8坪弱、店舗部分はおよそ7坪半という小さな物件でした。

櫻シェフ
「限界サイズでしたけど、実は前の稲沢の店より少し広いくらいなんですよ。前は6畳半くらいのスペースに機材を詰め込んでいましたから。機材を増やして大量生産するようなスタイルは考えていなかったので、スペース的な苦労はそれほどなかったですね」
こうして、新たに「パティスリー アン キョウト(以下、アン)」として、京都に根を下ろしました。
京都でいまの自分を表現する
実際に京都で店を構えてみると、想像していた京都とはまた違った側面も見えてきたといいます。
櫻シェフ
「京都って新しい文化がどんどん入ってきて、地域の方々だけではなく、海外からの観光客など多方面からの人が多い感じがしますね。古き良き見た目や文化を守っていますが、中身は新しく、どんどん変わっていくのを目の当たりにしました。見た目とは裏腹にシティな感じはしてます。お客様と接していると、もっと自由な表現ができるんじゃないかなっていう気がしていますね」
そんな櫻シェフの自由な発想を最大限詰め込んでいる商品の1つとして、1~2カ月ごとに味が変わる「エクレールセゾン(季節のエクレア)」があります。キャラメルやショコラといったエクレアの定番の味にとらわれず、その時々の感覚や季節に合わせて表現されるエクレアは、櫻シェフにとって「今の自分を映す」一品。

▲取材時のエクレールセゾン。ピスタチオのカスタードにレモンやベルガモットなどの柑橘のソースをあわせ、さっぱり夏仕立てに。
櫻シェフ
「最初の頃は、プラリネなどの定番の味からスタートしました。でも、もう少し自分らしい表現ができないかと考えるようになって。そこから少しずつ、味わいを重ねていくようになりました。『この食材とこの食材が一番合う』と理論立てて考える方もいますが、僕はその時に感じているものをベースに組み立てていきます。季節感を少し織り交ぜながら、今の自分がどう表現できるかを、毎回試しているような感じですね。ずっと仮レシピがいくつも頭の中に浮かんでいて、それを形にしていく。その工程が楽しいんです。エクレアはこれからもこのスタイルで続けていくつもりです」
こうした、枠にとらわれない発想と試行錯誤の姿勢こそが、櫻シェフの菓子作りの原動力になっています。一つひとつの材料、組み立て方、それらのベストな状態を常に考えて「アン」の繊細で工夫が凝らされたお菓子が生み出されます。

櫻シェフ
「ホテル勤務時代は作る量が多いので、効率やスピードをある程度重視する必要がありましたが、独立してからは、素材や製法により丁寧に向き合うようになりました。市販のペーストやピューレも必要に応じて使うことはありますが、アーモンドをフードプロセッサーで自家製パウダーにするなど、素材から自分で加工することもあります。
果物についても、例えばカシスやアプリコットなどは冷凍ホールを軽く解凍して潰すことで、皮や種の食感をあえて残す。“なめらかさ”だけを追求するのではなく、“果肉感”や“プチプチとした種の存在感”など、その素材らしさを活かした味作りを大切にしています」
お菓子と空間に宿る「アン」の世界観
店内には、愛知時代から「アン」の看板商品として親しまれてきた焼き菓子の数々。ショーケースには、彩り豊かなパウンドケーキや繊細な生菓子がずらり。どれも美しく、思わず目を奪われてしまいます。よく見ると、それぞれのケーキには少し変わった名前が添えられています。フランス語でも英語でもなく、個性的なネーミング。実はこれらは、櫻シェフがそのお菓子を生み出すきっかけになった出来事や思い出と結びついているのだそう。「ベルニーニ」もその1つです。

▲チョコレートでコーティングしたヘーゼルナッツケーキに、コーヒー風味のチョコレートクリームを重ねた「ベルニーニ」
櫻シェフ
「新婚旅行でイタリアのフィレンツェに行ったのですが、当時治安があまり良くなかったんです。ただせっかく来たし楽しみたいと思って、夜遅くにホテルの前にあったバルでカフェをすることに。そのバルがあった通りの名前がベルニーニでした。そこで飲んだカプチーノが、まるで軽やかなコーヒークリームのようにやさしい味わいで。その時の味の記憶をたどって、ケーキのクリームにはホワイトチョコを入れて、コーヒーの苦味というよりはまろやかなコクがでるように仕上げています。こうして思い出と結びつけて、『あの時よかったね、また行きたいね』と、今でもそんな話をします」
こうしたお菓子の名前ひとつとっても、シェフの感性と人柄がさりげなく表れ、「アン」の世界観を作りあげています。そしてその世界観を包み込むのが、「アン」を語るうえで外せない魅力の1つでもある、夫婦が情熱を注ぐ「空間づくり」。
店内にはこれまでコレクションしてきたアンティークの棚や菓子型などがディスプレイされ、特別なぬくもりのある雰囲気が漂っています。
櫻シェフ
「僕は『お店をやりたい』というより、『空間を作りたい』という気持ちが強いんです。京町家の扉を開けたら、そこにヨーロッパの空間が広がっていて、照明も什器もケーキも、すべてがこの世界を構成する要素。そういうところまでこだわりたい」
店内に並ぶアンティークの菓子型や道具の多くは、人から譲り受けたもの。職人の手を渡ってきた道具には、それぞれの物語が宿っています。時には櫻シェフ自身が、その物語を次の誰かへとつなぐことも。

▲これまでに購入したり、譲り受けた焼き型の数々
櫻シェフ
「自分たちも、移転する前に愛知でマルシェを開いて、道具を若い同業者に無償で譲ったりしました。誰かの思い出や背景が詰まった道具が、また誰かの支えになれば嬉しいし、その経験が、しんどいときに『頑張ろう』と思えるきっかけになればと思っています」

▲あまり目にすることにない昔ながらの古い道具が、所狭しと並べられている
この世界観を、“ふたり”で続けていく

京都での再スタートから約1年。櫻シェフが描くこれからの展望は、「このままを、ずっと続けていくこと」。
櫻シェフ
「昔はコンクールに出場したりと勢いのままにがむしゃらになっていた時期もありましたが、それを経て今の方が絶対的に知識も技術もある。このフェーズ、この気持ちのまま、あと10年、20年続けていきたいです。アンティークももっと集めたいですし、お店としての深みをもっと重ねていきたいですね」
その未来を描けるのは、何よりも妻の存在があるからだと櫻シェフは語ります。
櫻シェフ
「心から尊敬していますし、奥さんがいなければこの店は回らないと思っています。僕が表に立つことが多いですけど、実際には、何事もふたりで相談して、考えて、積み上げてきたんです。むしろ、家のことも含め9対1くらいで奥さんのほうが比重大きくやってきたと思っています(笑)。これからも“ふたりでやっている”という感覚は変わらないでしょうね」
夫婦二人三脚で築き上げた空間とお菓子の世界。これからも変わることなく、京都の町でさらに深みを重ねていく。
【取材協力】

Pâtisserie an Kyoto
(パティスリーアン キョウト)
住所:京都市中京区丸太町通御幸町東入 (京都市中京区毘沙門町560番)
営業時間:12:00-18:00
定休日:木曜日※最新の情報はお店の公式Instagramでご確認ください
公式インスタグラム:https://www.instagram.com/patisseriean
 
             
                                 
     
             
                                               
                             ベーカリーパートナー編集部
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                             chefno編集部
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                             chefno編集部
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