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2024.08.26

一日300個。スタッフからも不評だったパンが売り上げを支えるエース商品に。ベーカリーハイジの『クレセント』

ベーカリーハイジのクレセント

「庶民パンの最高峰でありたい」
自身のお店についてそう語るのは、千葉県白井市にある人気店「ベーカリーハイジ」の宮下真彦シェフ。1983年創業の同店を両親から受け継ぎ、地域一番店に育て上げた。カレーパンやクリームパンなど、スタンダードなアイテムをメインに取り揃え、昔も今も地元客に親しまれている名店だ。

そんなベーカリーハイジの看板商品として、1日平均300個販売されるスペシャリテが「クレセント」。その特徴的な形から、SNSに投稿されることもしばしば。味付けは塩とオリーブオイルのみといたってシンプルなこのパンが、なぜお店の人気ナンバーワン商品なのか?美味しさと人気の秘密を探っていくと、そこには宮下シェフの職人としてのたゆまぬ研究心と、経営者としてのビジョンが垣間見えた。

はじまりは他店のコピー

ベーカリーハイジ

▲ベーカリーハイジの店内。この日は30度を超える真夏日だったが、ハイジのパンを求めてやってくる客足は絶えない

クレセントは、17世紀にオーストリアで生まれたクレセントロールに由来する。クレセントは「三日月」を意味し、クロワッサンの原型とも言われている。ただ、ハイジのクレセントは、生地がハード系に近く、巻く回数もはるかに多い。違いは一目瞭然だ。ハイジのクレセントがいつ、どのように生まれたのか尋ねると、意外にも始まりは「他のお店のコピー」だという。

宮下シェフ
「石川県の『ジョアン(現在はフレッシュベイク)』さんというパン屋さんが、『つのパン』という名前でクレセントロールを売っていました。日本ではあそこが初めなのかなと思いますが、それを千葉の『サフラン』さんが作り始めて。サフランさんの講習会で覚えたものをウチにある生地でやり始めたというのがスタートです。今から8年くらい前ですね。

ただ、ウチのいまのクレセントの製法は、最初に習ったものとはまったく違うものになっています。生地作りから巻きの回数、焼く時の温度設定、コンベクションで焼いているので風の強さとか、オリーブオイルの塗る量とか。本当に研究しまくって、いまの形になっています」

ベーカリーハイジのクレセント

▲ベーカリーハイジのクレセント

ハイジのクレセントの特徴は?

宮下シェフ
「まず巻き数が多いという点。習ったものは10巻きくらいだったんですけど、いまは18巻きにしています。当然生地は極薄なのでクラストがパリっと薄くクリスピーになって、太いところと端っこの細いところで食感の違いが明確になります。

あと、生地作りにかなり時間をかけてるところも特徴かな。三日間熟成させています。粉は『つるきち*』という、北海道の岩崎農園さんという契約農家で作ってもらっている小麦粉をメインに、石臼で挽いたスペルト小麦を10%ぐらいミックスしています。

クレセントは味付けがシンプルで粉の味わいが結構ストレートにでるので、生地はずいぶんと改良を重ねてきました」
※つるきち
『キタノカオリ』の後継品種。もちもちとした食感と甘い風味があり、作業性も良いのが特徴

ベーカリーハイジ宮下シェフ

▲宮下真彦シェフ

生地の美味しさのヒントはあの名店のバゲットから

ベーカリーハイジのクレセント

▲シンプルな味付けによって生地の美味しさがさらに際立つ

クレセントをまずは真ん中からふたつに折ってみた。薄いクラストがパリパリと小気味よい音を立て、中からから小麦の香りとともにもっちりとした生地が顔を出す。食感は軽く、口どけがいい。ゲランドの粗めの塩がアクセントとなり、小麦粉のやさしい甘み、うまみとの絶妙なコントラストがこのパンの輪郭を際立たせている。

そして細くなっている先端部分。口にする前は、ほぼ食感だけの脇役的な存在かと想像していたがそうではない。しっかりと生地の味わいを主張しながらも香ばしく、もちろん食感もカリカリ、パリパリと心地よい。そしてこの部分があるからこそ、太い中心部も生かされているし、太い部分があるからこそ、この先端部分もより美味しくなってくる。ひとつのパンでありながら、まるで2つの異なるパンを食べているような驚きと幸福感を与えてくれる。

食べ終わったあとの口のなかに食感の記憶と小麦の美味しさの余韻だけが残っている。何度でも食べたくなるパンだ。このシンプルかつ絶品のパンの魅力を支えている二大要素である「生地」と「成形」について聞いてみた。

宮下シェフ
「前の日に粉と水と酵母を合わせておく『ポーリッシュ法』という熟成方法があるんですけど、僕はその酵母を入れないバージョンを採用しています。粉と水と、クレセントの場合はさらに豆乳を合わせておいて、一晩寝かしておくというやり方をしています。そこで粉の芯まで水分を浸透させておいて、その浸透させた粉と水を次の日に本捏ねします。そうすることで固くても老化がしづらく、口どけがいいパンになるんです。

この作り方、じつは『トランブルー』の『Tバゲット』からヒントをもらったんです。
バゲットの抱える問題点のひとつに老化ということがあって、それを改善するためだったり風味を出すために、その浸水種を使っているって成瀬シェフの本に書いてあって。真似してやってみたらめっちゃ美味しくて。そこからうちもバゲットを浸水種にして、それをクレセントに落とし込んだんです。

クレセントもバゲットと同じ問題点を持っていて。食感をよくするためにホイロをとっていないので、普通の発酵時間だと熟成が足らない。仕込みの前段階で、ある程度熟成させるこの製法を試したときにばっちりハマった感じです。浸水種でひと晩寝かせて、2日目に本捏ねして15度くらいで16時間、さらにひと晩生地を冷蔵庫で寝かせています」

はじめはプロでもてこずる独特の成形技術

ベーカリーハイジのクレセント

▲クレセントの生地を巻いていく宮下シェフ

現在の形になるまでにいくつもの改良・改善を重ねてきたという宮下シェフ。そのなかでも特に苦労したというのが成形だ。素人目にも容易ではないと想像できる幾重にも薄く巻かれた生地。この手間のかかる成形を、お店で商品として扱う以上スタッフもシェフと同等にできるようになる必要がある。それにはずいぶんと時間がかかったという。

宮下シェフ
「本当に特殊な形なので、パン屋さんをずっとやってきた人でも、すぐにはできないと思います。巻けないんですよね。普通にやるとクロワッサンみたいに太くなっちゃう。ハイジのクレセントは18巻きするんですけど、最初は9巻きとか10巻きしたところで生地がなくなっちゃうんです。最初はなかなかうまくいかなくて、巻くのにすごく手間がかかるのでスタッフからは『早くやめてほしい』って不評だったんです(笑)。当初はそんなに数も売れていなかったので『本当に続けるんですか』って」

ベーカリーハイジのクレセント

▲巻き終わりにはこんなにも生地が薄くなっている

そんなスタッフの思いとは裏腹に、クレセントは常連客の間で徐々に人気商品となっていき、同時に数をつくる、つまり生産性を高める必要性がでてきた。生地を薄く伸ばして巻き上げるという手間のかかる作業をできるだけ短い時間で行う。そこの工程をどう工夫して手早く上手く巻くか。その技術をスタッフたちに教えるのに苦労をしたという。

経験豊富な職人でさえ難しいクレセントの成形を、どうやって教えていったのでしょうか?

宮下シェフ
「最初の巻き始めが一番難しいので、習い始めは先輩たちがある程度巻いてあげて、最終段階だけ任せてあげるんです。そうやって慣れてきたら、自分で巻く部分を2割、3割と少しずつ増やしていって、最終的には1人で巻けるようになるというやり方です。いろいろ試行錯誤していくなかで、この練習方法が今は浸透しています。僕たちが最初にやっていた頃に比べて圧倒的に短期間で習得できるようになりました。

個人差はもちろんありますけど、新卒の子が今年4月に入って、今7月ですけど、もうかなりうまくなってます。あんぱんを包むのより早く覚えますよ。なぜかっていうと、作る量が圧倒的に多いから。練習量も多いので、そのぶん早く身に付きます」

ベーカリーハイジ

▲いまではほとんどのスタッフが一人でクレセントの成形を行うことができる

ベーカリーハイジのチュロセント

▲形がよくなかったり、焼きすぎてしまったものは油で揚げてシナモンシュガーを振り「チュロセント」に生まれ変わる。ロス対策とバリエーションのまさに一石二鳥のアイデア

「どこにでもあるパンをどこよりも美味しく」

ベーカリーハイジ

▲いまではお店のロゴにもなっている。まさしく「看板商品」に成長したクレセント

角のような目を引くフォルムがSNSで話題になり、図らずも売り上げに火をつけることになったクレセント だが、 「これはたまたま」と笑う宮下シェフに、今後のお店のビジョンについて質問してみた。

宮下シェフ
「お店のコンセプトとして『どこにでもあるパンをどこよりも美味しく』という思いがあります。流行りのパンとか、映えるパンとかじゃなくて、みんながずっと親しんできたパンがちゃんと美味しくて、信用できる。そういうことを大事にしたくて。

ただ、お店として『他と違う』っていうのはやっぱり大事だと思ってて、そういう点でもクレセントはウチの大事な商品だし、もっと売っていきたいなと思ってるんです。あと、売りたい理由はもうひとつあって、それは利益率なんですね。圧倒的に良いんです。

生地が120gなんですけど、それを成形して焼いて塩とオリーブオイルを塗って320円で販売しているので、原価でいうと15パーセントくらいです。美味しくてお客様にも人気だし、作れば作るほど売り上げもあがる。めっちゃ優秀な商品なんです」

ベーカリーハイジのクレセント

▲1日平均300本を5枚差しのコンベクションで焼成。1日に10回ほど焼いている

「ウチはスタッフが結構多くて。人手が足りていても僕が『面白い子だな』と思うとつい採用しちゃうんです。なのでスタッフにお給料をしっかりと払うためにもたくさん売っていきたい。クレセントは手間はかかりますけど、今は工程も改善されてスピード感をもって作れるようになってきたので『たくさん作ってたくさん売ろう』というのはスタッフとも共有しています。

1回の焼成で30個できるので、1回追加したら9600円の売り上げになる。、最後に1回追加するかしないかと考えたときに、15分くらいでできるんだったらやった方がいいですよね。ただ、結構しんどいんですよ。あの成形をずっとやり続けるの。でも『売るか売らないかでボーナスが変わってくるぞ』って(笑)」

「コピーはオリジナルに勝てない」とはよく言われるフレーズだが、宮下シェフは他店の模倣から始まったこの「クレセント」を改良と努力、そして堅固なチームワークによって唯一無二の看板商品へと磨き上げた。理想とするお店へのこだわりと、経営者としての現実的な視点。宮下シェフは現代のベーカリーオーナーのあるべき姿のひとつを見事に体現していると言えるのではないだろうか。


【取材協力】

ベーカリーハイジベーカリーハイジ
住所:〒270-1432 千葉県白井市冨士137-88
営業時間:9:30~18:00(土・日は8:30オープン)
定休日:月曜日
公式ホームページ:https://heidi-pan.com/
公式インスタグラム:https://www.instagram.com/heidi_bakery/

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Writer
chefno編集部
編集長&映像制作 コウヘイ
chefno編集部
編集長&映像制作 コウヘイ
映像制作とフランス語関連の記事担当。18年のフランス在住経験あり。フランス生活で得た気づきやエスプリを生かして面白い&センスの良いコンテンツづくりを目指します!好きなお菓子はダントツでタルトタタン。
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