前回の記事で、青山の名店「UN GRAIN」の昆布智成シェフからバトンを渡されたのは、上野毛に店を構えるグラスデザートの名店「ラトリエ ア マ ファソン」森郁磨シェフ。「僕はパティシエではない」そう話す森シェフの、美しくカットされ盛りつけられたフルーツ、幾重にも重ねられたグラスの中の層、計算し尽くされた一皿としてのスタイリングは、多くの人の心を魅了してきました。「主役はグラスデザートたち」と話す森シェフ。今までどのメディアにも自身を語ることがなかった今回、グラスデザートの根本となるシェフの考えや構造美への飽くなき探求心を取材してきました。未来のパティシエや料理人を含む、多くの人にとってスパイス(刺激)ともなる、インタビューに仕上がっています。貴重なお話は、前編・後編と分けてスペシャルなひと時を、お届けします。
目次
“発想”の起源と歩み
「幼少期のころから、“好きだ”と思ったことは、何も考えずとことん追求していました。小学生の時の卒業制作で自画像を作るときに背景を紫にしたところ、先生に“おまえは根本から歪んでいる”と言われこともあったし、高校生の時はピンクのシャツを着ていたこともあります。これって“人と違うことをしたい、変な風に見られたい”ではないんですよ。“人からどう見られるか”よりも、多少ダサくても他に目が行かなくなるくらい“好きなこと”に没頭できる集中力を持っていたということ。
そして高校を卒業し、調理師専門学校へ。料理の道へ行ったのは、単純です。人間、死ぬ間際まで切り離せないのが『食』というテーマ、そしてなくなることのない職業だから。とはいいつつも、やりたい仕事、好きな仕事ではありました。でも、一番ではない。二番目ぐらいかな?(笑) 一番好きなことはとっておく。だって実際に働いてみて、理想と現実を突きつけられたら、思い描いていた職ではなかった場合、どうする? 選択した自分を嫌いになるかもしれない。だから、二番目に好きぐらいが長く向き合える気がしたのでこの道へ進みました。」
血肉になったホテルニューオータニの料理人時代
「学校を卒業して、入社したのは『ホテルニューオータニ東京』。当時の『SATSUKI』を作ったメンバーたちと仲良くて。僕は、創業時のメンバ―ではないけれど今も交流がある。働いたのは6年ぐらいかな? まず最初から想定外のことが起きて、配属は中華のバイキングにまわされたんです。バーテンやって、サービス(接客)もやって……同期もいない環境。一方で、新入社員の同期は、厨房のみんなと仲良くなって順調にチームで働いていて。他のみんなからしたら、“あいつだれだ?”みたいなことになってしまい、遅れをとったなと思った。」
理不尽と、忍耐
「がむしゃらにやっていた、あの頃。仕事と向き合い続ける集中力、そして体力、みんなにも気を遣うし、仕事が終わると、それが全部わっと体を襲った。職場から一歩出ると安堵からか足は動かなくなり、“ああ、やっと終わった”とタクシーに吸い込まれた日が人生のピークでした。そんなある時、腰を痛めていた日のこと。肩肘をついて休まないと、立ってられないぐらいの時に、
“やる気ねえなら帰れ”
そう言われて何かがプツンと切れたというか、僕がここをやめた瞬間でした。
お菓子屋さんの厳しいとは違う種類の厳しさ。あれだけ色々なことにぶつかり、忍耐の連続だったことはなかった。でも、それを悪くいうことも、思うこともないです。その次に始めたうどんとパフェの店「中野屋」時代に、逃げ出してもいい場面は山ほどあったけれど、全部耐えられた。ホテルでの経験が血となり肉となり、今につながっていると思います。」
「あともう一つ。ピエール・エルメが日本に、一番最初にできたのがこのホテルニューオータニでした。僕にとって初めての、本当のフランス人が作る、本当のフランス菓子。食べたときの第一印象は“めっちゃ甘い”。こんなに甘いのかと驚くぐらい。とくにフレジエは衝撃的に、すごい甘い。けど美味しい。そのインパクトも、大きな影響を与えてくれたのかもしれません。」
うどんもパフェも常識にとらわれない。中野屋時代に無我夢中に進んで、たどり着いた境地
「ホテルを退職し、次に何をしようかと思ったところで、雇われて開いたのが『Café 中野屋』。お店のことは丸投げに近い感じで、建物そのものの運営と管理をすべてやっていました。実は、最初は釜飯屋にしたかった(笑)でも専用のガス台が必要でやめて、そばかうどんになって。そして蕎麦が一番好きだったけれど、あえてうどんに。あまりうどんが好きではなかったからこそ、その素材の特徴をつかむことが上手くできるから、という考えです。
ここでの挑戦は、コーヒーもパフェもうどんもすべてが初めてのこと。一筋縄ではいかなくて、“自分でいいのか”、“自分には何ができるのか”と自問自答する毎日でした。“好きにやれていいよね”と言われたこともあったけれど、“そうですね”とはとても言えない。この食材ってどうしたらうどんに合うのか、どういう技法が用いられるか。鴨肉だったら鴨肉の、うどん業界にはそのメソッドがあるけど、僕は知らなかった。そしてこの田舎町にどうやって人を呼ぶか、色々なことの実験を繰り返していました。」
「パフェを選んだ理由は、食べてもらいたい味が公平で、作り手の意図を楽しんでもらえるから」
「なぜパフェを始めたか? パフェは、グラスという一つの特性がとても面白いと思ったから。食べてもらいたい味を入れた順の逆再生で食べてもらえる。だから人にとって大きく味の印象が変わることがない点も、ポイントです。グラスも、形状や種類を変えたら自由度も広がる。それほど、グラスとデザートの関係性に、惹かれたということです。」
「今のお店は田中シェフを含め、理想のチームワークとバランスが存在する」
「その後、お店をいったん畳み、再スタートを切って始めたのが『ラトリエ ア マ ファソン(L’atelier à ma façon)』。お店の名前にはカフェのような手軽さより、本気でこのお店が好き!という方にゆっくり静かに過ごせたらと思い、ネーミングしました。それに扉を開けるのを躊躇するぐらいの雰囲気も意識して。
このお店は、いい仲間たちとスタートを切ることができました。珈琲を入れてくれる、薗部くんは中野屋時代の常連客。そして、卒業することにはなってしまいましたが、田中君はパティシエとして、大きな存在でした。
大きな店は手を抜く人が出てくることもあるかもしれませんが、この人数は嘘つけないから、チームワークが出る。僕はこのサイズ感が一番好きですね。
そして田中君について。ちゃんと“パティシエ”という人と、一緒に仕事をするのが初めてなんです。料理人だった僕が足を踏み入れなかった領域(パティシエの世界)、その枠を作ってくれたのが彼でした。“前(中野屋時代)の話を出すんじゃねえ”とか言われたりもしたけど、彼には前の店のことは関係ないというのも、すごく自分にとってはよかった。彼と一緒に膨大な量のグラスデザートを作ってこれて、今は感謝しかありません。」
今回は、ここまで。後編は、森シェフが掲げる「パルフェではなくグラスデザート」への想いと、グラスデザートへ込められた幾重にも重ねられた考えを紐解きます。
Profile
森郁磨 Mori Ikuma
1996年 辻調理師専門学校卒業
1996年 『ホテルニューオータニ東京』入社
2004年 『Café 中野屋』開店
2019年 『Café 中野屋』閉店
2019年 ラトリエ ア マ ファソン(L’atelier à ma façon)開店