だるまをデザインした個性的で目を引くデコレーションケーキをはじめ、インスタグラムのフィード欄にずらりと並ぶ、鮮やかで奥行きのある色使いのケーキやアシエットデセールの数々。細部まで神経の行き届いたそれらの作品は「きれい・美しい」という単純な言葉では言い尽くせないほどの光を放っている。
作り手は岡山県倉敷市にある「パティスリー オクサリス」の蔭山泰典(やすのり)シェフ。
地元の名店「バビアージュ」で研鑽を積み、シェフパティシエとしてANAクラウンプラザホテルでデセールを経験したのち独立。自らの世界観を打ち出し、見る者、食べる者たちを魅了し続ける気鋭のシェフに、自身のパティシエとしての成り立ちと菓子づくりへの想いを伺った。
「何のために、誰のために」
中学、高校と学生時代はテニスに明け暮れ、パティスリーの世界にまったく縁がなかったという。家庭が経済的に恵まれなかったこともあり、高校卒業後はテニスの実業団チームがある地元の製鉄会社へ就職。テニスと仕事の毎日を送るうちに、ある疑問が沸き上がったという。
蔭山シェフ
「仕事は毎日、大きな鉄板をプレスしてカット・研磨して、トラックに載せて出荷するという作業の繰り返しでした。会社の歯車のひとつとして、何千人もの人が働いている大きな敷地の工場のなかで働いていると、『自分はいてもいなくても同じなんじゃないか』と考えるようになって。もちろんこのお仕事にやりがいを持ってやってらっしゃる方もいますし、否定するつもりは全くないんですけど、僕じゃなくてもいいよねって」
蔭山シェフ
「給料はすごくよかったんです。高校出たての僕でもいきなり30万。そのせいでお金の価値というか、ありがたみもあまり感じなかった。パティシエになって給料がガクンと下がった時には『やっぱりお金ほしい!』とは思いましたけど(笑)、お金だけで人生が豊かになるかといえばそうじゃない。
好きなテニスをしながらお給料も不相応にたくさんいただいておいてこういうことをいうのは贅沢だとは思いますけど、自分にはつらかった。曲がりなりにも社会人になって、この社会、この世界のなかで、自分は誰かの、何かの役に立っているのか。この仕事を定年まで勤め上げて、死ぬときにこの人生でよかったと本当に満足できるのかという疑問に突き当たったんです」
友人に連れられて行った学園祭が転機に
製鉄会社での仕事を続けていくことに疑問を持ち、転職の二文字が頭の片隅にあった19歳の頃。友人に誘われてふと遊びにいった大学の学園祭で、たまたま目に留まった製菓専門学校のパンフレットを手にしたことが、蔭山シェフの人生を変える契機になる。
蔭山シェフ
「パンフレットを読んでいくうちに、どんどん自分のなかで高まっていくものがありました。世の中には警察官だったり医者だったり、いろいろ直接的に人の役に立てるような職業がありますけど、工業高校で赤点ばっかり取ってた人間が、たとえば医大に行って医者になれるかといったら、可能性はゼロではないだろうけど、相当難しい。
パティシエなら、医者のように病気を治すことはできないけど、お菓子の力で人を喜ばせることができるだろうと思ったんです。どんな人もケーキを食べている時は幸せな気持ちになれますから」
ただ、仕事を辞めて急にパティシエになりたいと言い出した蔭山シェフに対する家族の反応は、あまりいいものではなかったという。
蔭山シェフ
「兄からは『あと一年いまの仕事を続けて、それでもやりたいのならやればいい』と言われましたけど、その一年が自分には勿体なくて。
ちょうどその頃は僕が二十歳になるタイミングで、成人して大人の仲間入りっていう精神的な区切りもあって、ここから再スタートという気持ちが強かった。ずっと悩んで、行動を起こさずにあとになって『挑戦すればよかった』と後悔するくらいだったら、結果駄目だったとしても、挑戦して駄目だった人生のほうがいいと思ったんです。
そういう自分の考えを親に話して、毎月10万ずつ貯めていた貯金で学費も自分で払える状態だったので、誰にも賛成はされなかったですけど押し切って専門学校に入学しました」
雑誌のお菓子特集で独学
こうして、勤めていた会社を2年で辞めて、新たな人生の道として製菓業界に踏み込んだものの、それまでパティスリーに縁がなかった蔭山シェフがまずぶつかったのは、専門用語の難しさだった。
蔭山シェフ
「専門学校に入る前に本屋に行って専門書を開いたらちんぷんかんぷんで(笑)。お菓子のレシピってフランス語がたくさんでてくるじゃないですか。アパレイユとかナパージュとか。工程の説明も難しすぎて、これはとんでもない世界に入ることになったなと。
そしたら雑誌のコーナーにオレンジページのお菓子特集があったんです。オレンジページなら一般向けに分かりやすく書いてあるし、家庭のオーブンで作れる簡単なレシピが多いのでまだいけるぞと思って。買って帰って、まずはそれでお菓子作りの勉強を始めました。そのオレンジページはいまでも捨てずに持ってます」
オレンジページで菓子作りの勉強をして、地元岡山にある「西日本調理製菓専門学校」の製菓1年コースに入学した蔭山シェフ。2年コースではなく1年コースを選んだ背景には、早く現場に入って周りに追いつきたいという強い想いがあった。
蔭山シェフ
「2年なんて、そんなゆっくりしてる時間はなかったですね。当時はスイッチがパチッと入ってるのでやる気充分ですし、学費も自分が働いて貯めたお金で払っているから、遅刻もできないし居眠りもするわけにはいかない。もし学費を親に払ってもらっている状態なら、きっと居眠りもするし、友達に遊びに誘われたら早退もしてたと思うんです。でも僕は自分で学費を払ってスタートも出遅れているから、少しも時間を無駄にしたくないという想いで、周りとは意識が違っていたと思います。入学式が終わった帰りにケーキ屋さんに行ってアルバイト探しを始めてました。『やるからには首席で卒業や!』と気合十分でしたね。高校の時は赤点ばっかりでしたけど、専門学校では平均95点くらいとってました」
一流パティシエのもとで経験した妥協なき世界
専門学校での1年間でできる限りの知識と技術を詰め込み、パティシエの世界へと飛び出した蔭山シェフ。アルバイト先のケーキ店にそのまま就職し、5年が過ぎパティシエもすっかり板についてきた頃。さらなるステップアップを模索している時に訪れた出会いが、パティシエとしての大きな転機になる。
蔭山シェフ
「その頃僕は25歳で、東京へ出て有名店で修行がしたいという思いが強くなってきました。働きたいお店のシェフに手紙を書いたりもしたんですけど、新しい修行先はなかなか見つからなくて。どうしようかと考えているときに、岡山で『バビアージュ』というお店がオープンしたんです。そこのオーナーの大熨(おおのし)シェフは神奈川県に本店を構える『パティスリー タダシ ヤナギ』の支店の八雲店(東京)でシェフをされていた方で、ご縁があってそこで働かせてもらえることになりました」
大熨シェフのもと、2年間みっちりと東京流の仕事を叩きこまれた。いまの蔭山シェフの技術や仕事術の土台となったこの「バビアージュ」での2年間だが、その修行の日々は相当厳しいものだったと振り返る。
蔭山シェフ
「もう、めちゃくちゃ厳しかったです(笑)。仕上げがシェフの求めるレベルに達していなくて『おまえが触るとケーキが売れない』と叱られたこともありました。とことん妥協を許さない、シェフとの意識の違いを痛感しましたね。シェフに認めてもらうにはどうすればいいか。技術的な面もそうですけど、いかに無駄なく作業をするかを常に考えていましたね。
前日のうちに次の日の仕事を書き出して、いかに効率的に作業ができるかをシミュレーションしていました。ハードな仕事に耐えられるように体のコンディションも整えないといけないので、仕事が終わるのは夜の8時から9時くらいなんですが、遅くとも11時には寝るようにしてましたね」
「バビアージュ」で学んだお菓子づくりと真心の接客
蔭山シェフ
「ケーキも洗練された美しさがありました。もちろん美味しくて、口当たりがとても軽いんです。例えば、クレーム・アングレーズは一般的にはゴムべらで炊くんですけど、『バビアージュ』では、まず卓上ミキサーで真っ白になるまで立てて、さらに銅鍋でホイッパーを使って炊きます。卓上ミキサーで空気をより含ませることによってとにかく軽くなるんです。同じ材料でも作り方ひとつでこんなにも違うのかと衝撃を受けましたね。ほかにも素材の組み合わせ方やケーキのデザインとか、勉強になることばかりでしたね」
蔭山シェフ
「手取り足取り教えてくれる環境ではなかったので、どういう風にカットすればあの飾りができるのかとか、自分の仕事をしながらも見ておかないといけないですし、仕事中にメモをとることは禁止されていたので、家に帰って忘れてしまわないうちにノートに書きこんでましたね。それを次の日にシェフに見てもらって間違っているところを直してもらったり。ただ、レシピの配合、数字を持ってでるなと言われていました。でも僕が2年勤め上げてお店を卒業する時には『好きなレシピを持って行っていいよ』と言ってくれました。仕事にはとことん厳しいシェフでしたけど、そういう優しさも持ち合わせている、いまでも尊敬しているシェフです」
少人数だった「バビアージュ」では、忙しい時には製造スタッフも販売に立つことがあったそう。お菓子づくりだけでなく、販売・接客の面でも学ぶことが多かった。
蔭山シェフ
「例えば『お客様にケーキの説明をする時にはショーケースの前に回りなさい』とか、お客様の荷物が多ければ出口までお持ちしたり、赤ちゃんを抱いたお客様がいたらドアを開けなさいとか。ほかにもいろいろと勉強させていただきました。家ではケーキの箱にリボンをかける練習をしたり、当時結婚したばかりの妻にお客さん役になってもらって接客の練習もしてましたね」
バビアージュを卒業したあと、蔭山シェフは全日空ホテルでシェフパティシエを3年半務め、ここでアシエットデセールの世界を知ることになる。こうしてお菓子づくり、接客とお店づくり、アシエットデセールと、3つのピースが揃い、蔭山シェフは32歳で独立し、念願の自店「パティスリー オクサリス」をオープンした。(後編につづく)
【取材協力】
パティスリー オクサリス
住所:岡山県倉敷市浦田1511-13
営業時間:11:00~18:00
定休日:不定休(HPをご確認ください)
公式ホームページ: https://www.p-oxalis.com/
公式インスタグラム: https://www.instagram.com/p_oxalis/